植民地になったことのない日本

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 古い小さな車の運転席で、彼女は私にたずねてきた。
「私は日本について何も知りません。日本のマスターズ・カントリーはどこなんですか?」
 マスターズ・カントリー?私は何のことだかわからず、バックミラーの中の彼女の顔を見るしかなかった。すると、いぶかしげな私の視線にとまどったらしい彼女。
「あ、ごめんなさい。『どこですか』ではなくて、『どこだったのですか』と聞くべきでしたね」
 まず驚いたのは、マスターズ・カントリー(ご主人様の国)という言葉。彼女は日本がヨーロッパかアメリカの植民地になっていて、マスターズ・カントリーを持っていると思っているらしい。ところが私が不思議な顔をしたので「昔はそうでしたね」と言い直したに違いない。
「日本は一度も植民地になったことがないんですよ」
 説明する私に、今度は彼女のほうが信じられないという顔をして、バックミラー超しではなく、直接まじまじと私を見るのだった。
 それは当然なのだ。発展途上国の移民である彼女にとって、日本の歴史など何の関心もないに違いない。それは私を含め日本人の大多数が、彼女の国の歴史に興味がないのと同じことだ。 
 家に着き、玄関を入って振り返ると、私が鍵を開けたのを確かめた彼女は、合図のクラクションを鳴らしてくれた。ガタガタの小さな車は、オランダ人や私のような先進国の外国人が住む(つまり彼女のような旧植民地から来た人たちは住まない)分譲住宅地の並木道を走り去って行った。
 彼女は私のことをどう思ったのだろう。そのあとも気になってしかたなかった。
「同じ有色人種なのに、なぜ日本人はマスターズ・カントリーの住民と同等に生活できるの?」と思ったのではないか。「なぜ日本人は、アーチストなんていうわけのわからない仕事で暮らせるのか」と思ったかもしれない。
 翌朝、画廊のディレクターに鍵を返しに行った私は、昨日のスリナムの女性のことを話した。すると、オランダ人の彼はこう答えるではないか。(89ページ)
「ああ、彼女はおてもいい性格だね。ゲスト・ワーカーにしてはトップレベルですよ」
「え?ゲスト・ワーカー?」
 この言葉も初めてだったので私は聞き直したが、彼の返事は極めてそっけない。
「つまり外国からの労働者。オランダ国籍を持っている人もいない人もいるけど、特に旧植民地からの人たちのことですよ」
 ガーンと頭を殴られたような気がして、ため息が出た。オランダに住むようになって、「なんてこの国の人はインターナショナルなことか!」と感激したものだ。なぜならオランダでは、私が学生時代にロンドンで体験したような人種差別を受けることがまったくなかったから。
 1960年代に、短期間だったがロンドンで学生生活を送った私は、ほんとに哀しい人種差別を体験させられた。犬か猿のように見られていると感じることもあったし、下宿探しをしたときには、顔を見られただけで「もう、決まりました!」とドアをピシャン!そして翌日の新聞にまた同じ3行広告が載っている。あのころのロンドンはまだ大英帝国の誇りと驕(おご)りをどこかに持っていたのだろう。
 しかし、オランダにも人種差別がある。とそのとき初めて私は知ったのだ。
 この話を夫にすると、複雑な顔をしながらも大きくうなずいた。
「そうだよ。オランダではそういう人々をゲスト・ワーカーと呼ぶんだ。まったく優雅な名前を考えたものだ、お客様の労働者とはね。もちろんキャノンやトヨタで働く日本人は、そう呼ばれないけれど」
「日本が昔も今もマスターズ・カントリーを持っていないと言っても、彼女は信じないのよ」
 夫は「うーん」と考え込む。
「アジア、アフリカで植民地にならなかった国は、日本のほかに・・・・・どこだろうか?おそらくひとつかふたつしかないと思うよ。昔は一般的に”日本、タイ、エチオピア”と言われていたけれど、エチオピア第2次大戦前、イタリアに攻め込まれたし、あろたタイだけだろうな」
「え?そんなに少ないの?」
「日本は運がいい。いや、運がいいのではなく頭がよかったのだろうな、だって、織田信長のころ宣教師が来日したときや、徳川時代の終わりに西欧の国々が日本に開国をせまったときも、植民地になる危機があったわけだろ?」

(中略)

 日本に住んでいれば、ほとんどの人が人種差別の体験を持つことなく暮らしていける。その代わり、差別されている人たちの心もわからない。ヨーロッパ人には有色人種に対して”ある感情”を持っている人々は今でも多い。それが表面に出てこないのは口に出さないからだ。
 しかし、そういう嫌な体験があるからこそ、相手の立場を思いやる気持ちも生まれてくるのだ。それが単なる同情であってはならない、と思うけれど。

(デュラン・れい子「一度も植民地になったことがない日本」(講談社α新書・2007年)88〜92ページ)
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