知的・精神障害者がバスで歌う権利の存否

(1) まず、私は、乙武洋匡氏が新宿区長選を目指して活動していたことに期待をしていたし、身体障害者である区長が誕生することにより、障害者団体からの陳情により区政が変わるのではなく、身体障害者の方自身が区長になるという画期的な出来事を期待していた。過去には、日本と戦争をした当時の米国のルーズベルト大統領も身体障害者であった。しかし、彼は身体障害者であることを知られることを極度に嫌ったので、当時の有権者には知らない人も多かった。

 

(2) ちなみに、そもそも、保守系の活動というのは、従来は、資産があって、社会的地位のある人が、地域での社会的地位に応じて活動するというのが主だった。そういった人が政治家になったし、「他者への」寄付など、政治には金がかかるものだ。それは政治家にならなくても、政治家の周辺にいる保守系の活動家というのは、そういうものだった。

 

(3) 個人的には、政治家や総理大臣になる人には、経歴(学歴を含む)を必要条件としたい。つまり、戦後は、東大法学部卒で経済官庁出身の総理大臣が誕生していた時代が成長を成し遂げていた。
【参考】
Princes of the Yen: Japan's Central Bankers and the Transformation of the Economy (East Gate Books) Paperback – May 2, 2003
by Richard Werner (Author)
http://www.amazon.com/Princes-Yen-Central-Bankers-Transformation/dp/0765610493/ref=cm_cr_pr_product_top?ie=UTF8
(4)もちろん「読み書き」だけできればいいじゃないかという考えの人も居るかもしれないだろうが、18歳までの過ごし方が如実にハッキリと反映されるのが「進学先大学」であり、やはり、その人物を判断する基準となる。それは企業の採用しかり、政治家との適性しかりである。たしかに田中角栄氏(二田高等小学校(現在の柏崎市立二田小学校)卒業。なお、田中は最終学歴について「中央工学校」卒とすることが多かった)のような人物もいる。当時は、尋常小学校が義務教育だったので「中学卒」で、高等小学校卒は義務教育ではなかったので「高校卒」に該当する。
 彼が言うには、他の政治家の名前を挙げて、「○○くんは文書(資料)を読むのに○分で終わる。しかし、俺は○時間かかる」と文書を見たり政策を勉強したりするに際して、他の東大卒または官僚出身政治家との違いを痛烈に認識したうえで、自己の研鑽にはげんだ。
 彼が総理大臣にしたかったのは、山下元利という。貧しいながらも専検(いまでいう高卒認定)試験に合格して、東京大学法学部を卒業した官僚出身の政治家である。堤康次郎氏の地盤を継承して、政治家となった苦労人であり、最後まで二階堂グループに残り続けた。もし彼が総理大臣になっていたら、世の中は変わっていただろう。

 

(5)さて、かつて、私が、とある保守系の活動家と自称する人物を紹介されたことがある。私を紹介した人は、福岡県の、とある★★★★の会長の★★で、保守系の信念を持ち、選挙にて★★になることを目指している人物だった。彼(★★★★の息子)と知り合ったのは2007年ごろである。
 さて、紹介された人物と、話した所、彼(自称保守系活動家)はカネが無いということ。で、学校に進学したが、その一方で奨学金の返済もあるということ。奨学金というのは一定の所得水準以下でないと借りることができない借金である。まぁしたがって彼の実家は低所得なわけである。そういった人物がなぜ保守系の活動をやっているのか、不思議に思った。で、学校が終わって(卒業か中退かは不明)からは、とくに仕事はしていないということで、実家に住んでいて、農家なので、農業を手伝っているという説明。
 また、人によっては、彼のそのような状態を「無職」と呼ぶだろう。
 その貧しい自称保守活動家は、たまに上京して、役所などに、彼の考える政治思想を陳情するために上京するということで、ホームページだかブログだかに、彼個人名義の銀行口座の番号が堂々と明記してあり、上京のための交通費が必要と称して、誰かからの振込を期待しているようだった。
 しかし、福岡⇔東京の交通費なんて、まぁ往復で、そんなにかかるものではない。成田⇔中東 成田⇔ニューヨークを往復するわけでもなく、まぁ交通費にもことかく自称保守活動家というわけである。
 上記の(2)で挙げた、従来型の保守系活動家が「他者への」寄付を行っていたのと反対に、その貧しい自称保守活動家は「自己への」寄付を大胆にも恥ずかしげもなくブログだかに掲示していたのである。
 彼が上京することで社会が変わるわけでなく、まったく彼の政治的欲求を満たしているわけなのであるが、その行為(上京)の一部を第三者からの募金で行おうとしていたようである。

 

(6)彼は上記の経済状態から、貯蓄が尽きたのか、結局は、福岡県の農村地帯から市街地に勤務先を見つけることになった。
 その勤務先の近辺に★★★★を借りることになったという。すると、その貧しい活動家は、そのワンルームを借りる費用を、例の★★★★の息子に借用を申し込んで借りたということである。
 そもそも、時間とカネが余っているひとが行うのが保守系の政治運動とかんがえると、(もちろん左派の運動も時間・金銭の余剰ができないはずであるが)、そもそも、その貧しい活動家は、政治活動の前に解決するべきことがあったのではないだろうかと思われるのは自明である。
 たとえば、工場労働など、いわゆる3K労働には働く人が足りていないので移民(外国人労働者)を受け入れようという話がある。彼(貧しい自称保守活動家)のような人物が賃金労働するに相応しい場所であるし、彼のような存在が工場などで賃金労働すれば、外国人労働者受入をまぁ少なくとも1人分は食い止めたことになる。
 まぁ、人間というのは、自己が所有する資産や、自己の収入の範囲でしか行動できないわけであって、貧しい活動家の「東京に行く交通費すらないので募金してください」というのは、鮮烈な印象を与えていた。(一般的「常識」では、「自分のカネでやりなさい」になる)
 なにより、その貧しい活動家は、農村地域での実家での無職をやめて正業に就こうとしたわけである。それ自体はいいことであるが、その住居費用まで他人になんとかしてもらおう(借金しよう)というのは、やはり周囲に迷惑のかかることである。まぁ非常識である。

 

(7)貧しい活動家であった彼がその次に、始めたのが、その就職先の会社が発行している「高額な書籍」や「講演会のチケット」を、福岡県のロータリーの息子に売ろうとしたことである。たしかに、★★★★の息子は、貧しい活動家にカネを貸してしまった(福岡県で★★★★を借りるに必要な費用だから、わずかな金額だろうが)。しかし、それに味をしめて、金を貸してくれた人に、さらにたかりにきたというわけである。さすがに★★★★の息子も、貧しい活動家の要求は断った。

 

(8)その後に、私の所に連絡が、その貧しい活動家から、電話でかかってきた。要は「お願い」である。私に「高額な書籍」や「講演会のチケット」を買ってほしいというわけだが、結局は買わなかったように思う。また、彼とは1回だけあったように思うが、ほとんど面識のない人物に、そういうお願いをするのは非常識だし、たしかにおかしい。
 彼は覚えているか知らないが、親切な私は彼に「通院」を勧めた。おそらく2010年から2011年くらいだったと思う。要は「精神科」への通院である。彼が、長期にわたって就職できなかった背景には、安定的な人間関係が形成することができなかったこともあるだろう。それは話した時の彼との「うけこたえ」から感じたことである。
 すなわち彼の個性である。しかし、その個性では社会でいきていけない。人間が常識を学ぶには、生育から成人するまでに、人間と関わって、人間関係を経験として積むことで、人間関係を体得するわけである。しかし、彼のように、周囲に避けられているようでは、人間関係のレッスンを受けるべき相手がいないので、常識が身につかず、「非常識」のままとなる。
 もちろん、人間は出生の段階から「常識」を身につけているわけではなく、赤ん坊の段階では「非常識」である。囲碁・将棋・球技が相手がいて、技術を体得できるのと同様に、「相手」が居ないと経験が積めないので「常識」を体得することができない。
 そういった状態で生育した人は、一般人は相手にしないので、精神科で、医師による相談・投薬などにより、ある程度、正常な精神状態を得られるようにする必要がある。異常な精神状態にある人には、かかわろうとしないのは当たり前である。

 

(9)「病気」というのは治療すれば治る。しかし治療を施しても治らないのが「障碍」である。その後、非常識な貧しい活動家である彼が、きちんと通院して、適切な医療処置を受けたか不明である。
 もちろん精神障碍のある人というのは、自己のことを障碍と考えていないことが多い。むしろ、他者から親切にその障碍を指摘されることを受け入れない場合も多く、非常にプライドが高い精神障碍者がいるのも事実である。

 

(10)その時点では、実は、その貧しい活動家については、やはりその「非常識さ」から各所から、指摘があがっていた。それは嫌悪とか敵対というよりも「関わりたくない」といった指摘である。

 

(11)私達は、公共交通機関として、バス・電車にのる。たまに遭遇するのが、知的(または精神)障害者が歌を歌っている場所である。「迷惑」でもあるが、それよりも先行するのが「関わりたくない」という感情である。(したがってバスでそういう人が乗車すると、周囲が距離的に避ける)
 もちろん、誰も直接に知的(または精神)障害者に「注意」なんてしない、また歌っている知的(または精神)障碍者も迷惑をかけているという意識が欠如している(発生しようがない)。上述の非常識で貧しい活動家に対する印象も、みなさん同様の印象を持っていたようである。

 

(12)もちろんプライドが高い「非常識」な貧しい活動家は、そういった周囲の指摘を察知したか否かはわからないが、察知したとしても、きちんと受け入れていないであろうことは、その後も、彼が積み重ねてきた評価からも明らかである。彼に関する評価は、彼本人の耳には届きにくいであろう。誰だって電車のなかで歌っている知的(または精神)障碍者と関わりたくないものだ。
 ましてや注意することにより得られるメリットなど何もない。

 

(13)人間というのは、2人いれば、完全対等ということはなく、必ず、優劣が発生する。それは社会的地位であったり、地域におけるポジションであったり、経歴(学歴・職歴を含む)であったり、職業であったりする。たとえば、裁判官とコンビニ店員を、社会は同等の地位とみなさない。それは、良いか悪いかではなく、客観的な事実である。また、債権者と債務者の関係も同様である。

 

(14)あるていど資産・収入および社会的地位のあるひとにとって、「貧しい人達」「社会的地位が低い人達」というのは、それだけで、哀れみの対象である。そして関わりたくないという感情も同時に発生させるものである。
 もちろん実社会では、両者は遭遇することはない。

 

(15)しかしながらインターネットというのは、貧しい人も、富める者も利用できるツールである。最近は、かつてと違って、政治的な意見をネットで発信する人が増えた。そこでは(当たり前であるが自己防衛のため)自己の所属や職業を明かさないので、本来なら発生しているはずの社会的階層の差を無視して発信やコミュニケーションや対立が発生する。それはそれで今までに無かった現象である。
 そして、バス・電車と同様に、知的(または精神)障碍者がバス(公共の空間)に乗車するように、知的(または精神)障碍者がインターネット(公共の空間)に乗車する

 

(16)バスのなかで歌(迷惑をかける)知的(または精神)障碍者が注意されず、「関わりたくない」という対応(距離を置くなど)をされるように、インターネットのなかでトラブルをおこす(迷惑をかける)知的(または精神)障碍者が注意されず、「関わりたくない」という対応(ブロックなど)をされる。
 そして、避けられている知的(または精神)障碍者のみが歌い続ける。

 

(17)無職から賃金労働者になるに際して、★★★★を契約するための僅かな金銭すら借用した貧しい活動家は、九州に住んでいるにもかかわらず、東京の保守系グループを含めマイナスの印象しかもたれていない(たまの上京で、それくらいの定評を蓄積するのであるから、逆にたいしたものである)。もちろん表面的には好意的に振る舞う人もいるだろう。
 しかし、多くは、バス(または電車)の中で歌う知的(または精神)障碍者と同様に、避けられて終わっているだけである。この両現象は、非常に似ているというか、まったく同じである点が興味深い。

 

(18)もちろん「迷惑行為」をする"可能性が高い"からといって、知的(または精神)障碍者を乗車拒否させることができないように、知的(または精神)障碍者にネットをさせないように法整備することも不可能だろう。
 結局のところ、「何か発生してから」しか処罰などは、できないわけであるが、実際のところは「避ける」で、自然に解決され淘汰されていっているようにも見える。

 

(19)いわゆる3障碍者(身体・知的・精神)を考えるうえで、身体障害者と、知的(または精神)は、大きく区別される。
 障碍者の就職斡旋を行っている団体によると、身体障害者が大きな同情を受け、障害者雇用においても有利である一方で、知的(または精神)はトラブルを確実に起こすという偏見もあり、なかなか受入られないようである。
 バリアフリー社会を考えるうえでの参考にしたい。